助けること助けられること。

誰か心配な人がいて、何か手助けできないかなあと思う。

その気持ちに嘘はない。

しかし、ある人が、

「人を助けようと思ったら、どんなことがあっても最後まで助ける覚悟がなければいけない。中途半端な気持ちで手を貸すくらいなら、全然手を貸さない方がよっぽどましだ。」

とオレに言った。

 

これはかなりハードルが高い。

でも、言いたいこともわかるような気がする。

特に、精神的に繊細な人に対しては、よほどの覚悟がなければ、かえって傷を深くしてしまう危険性がある。

繊細な人はとにかく傷つきやすい。

 

手を差し伸べてくれた人を信じられると思い、唯一の心の拠り所にしていたのに、その後だんだん距離を置かれていくことを感じた場合(そういのも敏感ですぐ察知する)、前よりいっそう傷ついて殻にこもってしまう。

「やっぱり人なんて信用するべきじゃなかった。」

 

一方助ける側にしたら、絶えずだされる要求にやがて疲れてしまう。

要求というより、悩みかな?

オレはどうせだめなんだ、とか、やっぱり人は冷たいんだな。

という言葉に、ダメージをうける。

最初はただ単純に手助けしたかったのに、義務感に縛られる感じになっていく。

 

その義務感というか距離感を繊細な人はすぐ感じ取り、傷ついて、もういいよ、となる。

手助けしていた人も、けっこうな労力を使って恨まれて終わり、みたいになって傷つき、もう人のことは放っておこう、と思う。

 

最初、手助けしようという気持ちは純粋な善意だったはずなのに、手助けし

てくれたことが嬉しかったはずなのに。

 

オレは、どっちの気持ちにもなったことある(⌒▽⌒)。

人はなぜうまく助け合えないんだろう、とずっと思っていた。

 

オレなりにものすごく考えたんだけど、結果、

「助ける人がひとりしかいないからだ」

という結論にたどりついた(⌒▽⌒)。

 

さらに、

「助ける側と助けられる側、という役割が固定されているからだ」

ということにも気がついた。

 

助ける人がひとりしかいないから、その人に全部がのしかかる。

助けることについて全責任を負うことになる。

なので最初の人が言っていたように、

「どんなことがあっても助ける」

くらいな覚悟が必要ということになる。

これがもし、たくさんのひとがかかわりあっていたら。

「これはオレができるがここは無理。」「こっちはオレが」

みたいに、気軽に手助けできる気がする。

手を出す前に重い覚悟が必要、なんてことはなしに。

 

ひとりだと、自分にぜんぶのしかかってくる恐怖というものはある。

でも、困っている人を助けたい、という気持ちもまた自然なものだと思う。

 

助けられる側に必要なのは、「All or Nothing」の考え方を止める、ということ。

助ける側にも人生がある。

 

助けられる側にはどこか、

「オレの方がずっと恵まれてないんだから、助けてくれたっていいじゃない」

という甘えというかひがみがある気がする。

まあ、オレの中には正直、どこかにそういう気持ちがあった( ̄◇ ̄;)。

この気持ちを治すには、助ける側になるのが一番だと思う。

 

「こんな恵まれてないんだから人を助けられるわけないだろ、自分のことで精一杯なのに!」

と思うと思うが、そんなことない。

誰だって人を助けられる。

転んでる人を助けてあげるとか、席を譲るとかそんなことでもいいのだ。
助けられた方はその日1日気分がいい(⌒▽⌒)。

 

オレは不幸なんだから人のことは知らん、って考えは不健康だ。

人はいつでも人を助けられるものだと思う。