一神教の気高さと残酷さについて

世界史を勉強したとき印象に残ったのは、一神教を信じる人たちの
信じられないほどの残酷さだ。
神の名の下に、侵略を進める。
神様の意図だから、と言う理由で。
異教徒というだけで、平気で、そこに平和に暮らしていた人たちを迫害する。
絶対に自分が正しいと、正義を行っていると思っているから、
殺戮に迷いがない。


教祖が亡くなり年月が経つと、宗派が別れる。
すると同じ宗教のはずなのに、
本質的な所は同じことを信じているはずなのに、
異なる宗派というだけで、
同じ宗教の信者同士で殺し合いが始まる。
ささいな違いなはずなのに。


こんなことが歴史上何回も繰り返される。



宗教にも無知だったので知らなかったが、
キリスト教ユダヤ教イスラム教も、もともとの
「唯一の神」は同じ神様なんだということを、この間初めて知って
驚いた!(キリストは『神の子』で、ムハンマドは『神の言葉を伝える者』)
あまりに仲が悪いので、当然違う神様を信じていると思っていたのだ。
一体どういうことだろう?


一方で、一神教の信者にはとても崇高なものを感じることがある。
例えばキリスト教徒の自然なボランティア精神。
他人の子も普通に養子に迎え入れるような寛容さ。
教会の静謐で神秘的な感じ。


イスラム教徒も「人間は平等だ」と言う考えから、貧しい人を助けたり、
本当はお金持ちで贅沢な暮らしができるはずな人でも、仲間に平等に分けて、
つましい暮らしを貫いたりするらしい。
不謹慎だが、ビンラディンとブッシュを比べると、明らかに
ビンラディンのほうが聖人ぽいな、と思ったことがある。
「資本主義者はすべて敵、無差別に殺せ」と思う激しい信念さえなければ…。


一神教には一人の神様しかいない。
一人の神様だけを信じろ、という教えは単純明快なだけに
迷いもなく強く信じることができる。


強い信念を持つことが人間を強くする。
しかし、その強さを形作っているもの。
それは人間を悪魔にもするし、天使にもする。

迷いがない人間は時としてひどく心が狭くなる。
間違っているかもしれない、という考えはいつでも人を
苦しめるが、そこを考えなくなることで、
結局人間は堕ちていくようにも思う。


神様は絶対正しいかもしれないが、
その神様の望まれていることを人間たちがはたして正しく理解しているか。
少なくともそこのところは定かではないのだ。