一神教のさびしさについて。

子供の時に海外のドラマを見るたびに納得できなかった。



善き人々が神様に向かって祈る。



神様だけはいつでも私を見守って下さる。
今日一日の罪をお許しください、と。



そこでいつも思ったのだ。
神様だけって?



親もいるし兄弟もいる。じいちゃんもばあちゃんもいる。
近所の人たちもいるし、友達もいる。
周りの人じゅう(じゅうじゃないな、意地悪な人やわからずやの人もいるから(^_^))
自分を暖かく見てくれているのに、なんでそんなこというんだろう。
神様だけなんて。



自分の周りの人たちがそんなふうに祈ってたらすごくさびしくて、
がっかりしてしまう、と思ったのだった。




そしてまた、神様が自分を見守って下さる、と言うのにも違和感を感じていた。



神様はもっと漠然とした、広い存在だと感じていたのだと思う。
人間一人をいちいち見ているわけではなくて、ただ存在している。
私の罪とかはまたぜんぜん別の問題。
私の罪は当然私のもので、私の責任。



神様は言ってみれば善い者としての見本で、
それに対して、恥ずかしい事をしてしまったかどうかなのだ。
してしまったことはとりかえしがつかない。
だからこそ、
普段の行いを気をつけなければいけない。



神様はいつでも私を見ているけれど、
私の罪はあくまでも私のもの。
許す許さないもない。


神様が私だけを見ているなんて、
そんなの恐れ多いっていうか、うぬぼれてるというか(* ̄∇ ̄*)。
神様だっていろいろやることあってお忙しいんだから(^_^)。



だいたい、一人の神様がずーっと私を見ているわけではなくて、
そこら中に神様はいる。
その場その場の神様が、だいたいは機嫌良くにこにこして見守っているかんじ。
そうだ!私の神様、というより場所の神様、というかんじなのだ。
だから、一番自分をみているのは、おてんとさま、太陽の神様なのだ。



つまり、神様は神様、オレはオレ、ってかんじ。
神様が自分に何かしてくれるなんて事は、期待しない。
それはおこがましい、なんて違和感だったと思うのだ。