自分が本当はどうしたいのか、って問いは難しい。
よくドラマなんかで、
「あなたは本当はどうしたいの?自分に正直になって!
本当にやりたいことをやっていいのよ。」
と一生懸命励ましてくれる人がでてくる。
昔は思っていた。
「行動する勇気がなかなか出ないんだよなあ」
でも最近思う。
「本当は自分はどうしたいのか、ってところが難しいんだよなあ」
これは優柔不断な人ならばの悩みかもしれない。
Aを選ぶと、オレが重要に思っているものや人の一部が失われる。
Bを選んでも、やはり別の何かが失われる。
Aを選ぶと決めたのは、本当にオレ自身の意見なのか。
それとも、信頼している人がAがいいと言ったからAを選んだのか。
Bを選んだのは、本当に納得しているのか。
ただ逃げているだけではないのか。
突き詰めて考えてみればみるほど、わからなくなってくる。
こうなればいいな、の一部は、AにもBにも含まれている。
それで、本当にしたいこと、と言われたら
「AとBの両方のいいとこどりができる方法がとりたい」
なんだけど、そんな方法はない。
(もしかしたらあるのかもしれないけど、思いつかない。
思いついても、実現不可能な気がする方法ばかりだ。)
何もしなければ、一方を切り捨てずに済むから両方の可能性を残しておける(ような気がする)。決断に後悔することもない。
気持ち穏やかに過ごせる、一番賢い方法!(?)
それで、いつまでもぐずぐず決められずにいるんだろう。
欲張りなのか?(^▽^;)
なにもしない、というのも一種の決断だと思う。
ただ、本当に納得しているならいいんだけど、問題を先送りにしてるだけだったら、いつもそのことが頭に引っかかってしまう気がする。
何もしなかった結果、うまくいかなくなったとしても、その事実を受け入れる覚悟はあるかどうか?
うーむ。
すごく我慢していたときがあって、我慢すると決めていたはずのに、気がつくと自分の意志と無関係に、聞いたこともないものすごい唸り声がでて、止まらなかったことがある。
それはほんとうに恐い体験で、気が狂ってしまったのかと思った。
自分では止めようと思うのに、別な生き物が自分の中にいるようで、ぜんぜん制御できなかったからだ。
そのときの唸り声をあげていたものが、自分の本当の気持ちだったんだと思う。
もう我慢するのは無理だ、と。
オレはあれ以来、自分の心を大切にしようと思っているのに、長年人に従ってきたせいか、いまだ心の声がよく聞こえない。
なにか自分の意思でやろうとすると、悪い結果ばかり思い浮かんで、気持ちが挫ける。
そもそもそれが自分の意思なのかどうなのかもわからなくなってくる。
なにより、思う通りに行かなかった時の後悔が恐い。周りの反応が怖い。
つまり、自分で決断したからには、結果はすべて自分で引き受ける自信ー覚悟、がないんだろう。
こう書いてると、本当に意気地無しの人生を送ってきたなあと思う。
自分で決断する自信がないばかりに、頭のいい人に従ってきた、その結果なんだと思う。
自分で何がしたいか、自信を持って言えなくなってしまった。
あのとき唸り声をあげていた自分が、語りかけてくれてきたらいいのに、と思う。
つらいときだけでなく、これをやるとうれしい、ということを。
本当に自分の気持ちがわからなくなっているんだなあと思う。
教えて、自分(⌒▽⌒)。
オレがわがままな人を尊敬するのもそういうところにあると思う。
(わがまま、っていうと言葉が悪いか。唯我独尊、とか自分に自信のある人。)
自分の心の声に正直。
本当によく心の声が聞こえていると思う。
そのかわり、人のいうことをあんまりきいていないけど!(⌒▽⌒)
頭にくることもあるけど、なにより一緒にいて気持ちが楽。
それはその人が、人のせいにしないのを知っているからだと思う。
自分のことを大切にしている姿に、とても安心感というか、安定感を感じる。
あんなふうに、自分のやりたいことを自信を持ってやりたい。
後悔はしない、と言える自分になりたい。
助けること助けられること。
誰か心配な人がいて、何か手助けできないかなあと思う。
その気持ちに嘘はない。
しかし、ある人が、
「人を助けようと思ったら、どんなことがあっても最後まで助ける覚悟がなければいけない。中途半端な気持ちで手を貸すくらいなら、全然手を貸さない方がよっぽどましだ。」
とオレに言った。
これはかなりハードルが高い。
でも、言いたいこともわかるような気がする。
特に、精神的に繊細な人に対しては、よほどの覚悟がなければ、かえって傷を深くしてしまう危険性がある。
繊細な人はとにかく傷つきやすい。
手を差し伸べてくれた人を信じられると思い、唯一の心の拠り所にしていたのに、その後だんだん距離を置かれていくことを感じた場合(そういのも敏感ですぐ察知する)、前よりいっそう傷ついて殻にこもってしまう。
「やっぱり人なんて信用するべきじゃなかった。」
一方助ける側にしたら、絶えずだされる要求にやがて疲れてしまう。
要求というより、悩みかな?
オレはどうせだめなんだ、とか、やっぱり人は冷たいんだな。
という言葉に、ダメージをうける。
最初はただ単純に手助けしたかったのに、義務感に縛られる感じになっていく。
その義務感というか距離感を繊細な人はすぐ感じ取り、傷ついて、もういいよ、となる。
手助けしていた人も、けっこうな労力を使って恨まれて終わり、みたいになって傷つき、もう人のことは放っておこう、と思う。
最初、手助けしようという気持ちは純粋な善意だったはずなのに、手助けし
てくれたことが嬉しかったはずなのに。
オレは、どっちの気持ちにもなったことある(⌒▽⌒)。
人はなぜうまく助け合えないんだろう、とずっと思っていた。
オレなりにものすごく考えたんだけど、結果、
「助ける人がひとりしかいないからだ」
という結論にたどりついた(⌒▽⌒)。
さらに、
「助ける側と助けられる側、という役割が固定されているからだ」
ということにも気がついた。
助ける人がひとりしかいないから、その人に全部がのしかかる。
助けることについて全責任を負うことになる。
なので最初の人が言っていたように、
「どんなことがあっても助ける」
くらいな覚悟が必要ということになる。
これがもし、たくさんのひとがかかわりあっていたら。
「これはオレができるがここは無理。」「こっちはオレが」
みたいに、気軽に手助けできる気がする。
手を出す前に重い覚悟が必要、なんてことはなしに。
ひとりだと、自分にぜんぶのしかかってくる恐怖というものはある。
でも、困っている人を助けたい、という気持ちもまた自然なものだと思う。
助けられる側に必要なのは、「All or Nothing」の考え方を止める、ということ。
助ける側にも人生がある。
助けられる側にはどこか、
「オレの方がずっと恵まれてないんだから、助けてくれたっていいじゃない」
という甘えというかひがみがある気がする。
まあ、オレの中には正直、どこかにそういう気持ちがあった( ̄◇ ̄;)。
この気持ちを治すには、助ける側になるのが一番だと思う。
「こんな恵まれてないんだから人を助けられるわけないだろ、自分のことで精一杯なのに!」
と思うと思うが、そんなことない。
誰だって人を助けられる。
転んでる人を助けてあげるとか、席を譲るとかそんなことでもいいのだ。
助けられた方はその日1日気分がいい(⌒▽⌒)。
オレは不幸なんだから人のことは知らん、って考えは不健康だ。
人はいつでも人を助けられるものだと思う。
優柔不断病がひどい。
「優柔不断は最大の苦痛だ」
と言ったのはデカルトだったか違ったか(テキトー)。
最近、もとからの優柔不断がさらに輪をかけて、病的になってきた。
とにかく何か選ぶのに決まらない。
家具でも、服でも、住むところでも、予定でも、なにもかも(⌒▽⌒)。
一つ選ぶと、選んだ方の欠点が目につき、選ばなかった方の長所が目につく。
逆を選ぶと全く逆のことが起こる。
いつまでも決められない。
さんざん悩んで、疲れ果てて、もういいや!えいっと選んでみると、今度は自分の選択にいつまでも後悔する。
さらに、口の悪い友達に
「なんでそっち選んじゃったのー?」ƪ(˘⌣˘)ʃ
なんて言われたら最悪。とどめを刺された感じ!友人までも憎くなって泣きたくなる。
なんか反応がすべて大げさ。我ながら(^▽^;)。
と頭ではわかっていても、感情が理性をふっとばす。
そんなことが何回かあった末、最近ではさらに病気がすすんで、行動するのが重荷になってきた。やらなきゃならないんだけどひどくおっくう。
金使って時間使って気もつかって、挙句の果てに失敗して傷つくくらいなら現状維持でOK!
というフリーズ状態になりつつある。
やるべきことが色々あるのに、何も進まずあっという間に時間だけが過ぎていく、という状態が続いている。
雑用に追われ時間がない、と思っていたけど、決断すべきことからだらだら逃げているうちに月日が経っていく、というのがほんとうのところだと思う。
前から優柔不断だったけど、こんなにまでひどくなかった。
何か
「絶対失敗したくない」「損するのは嫌だ!」
という気持ちが前よりずっと強くなっていて、それがひどいプレッシャーになっている気がする。
さらに、それについて批判されることにもひどく敏感になってる。
ああなんか疲れる‥何もやってないのに(T_T)。
自分の絶望は自分にしかどうにもできない。
自分に絶望した、と思ったことも何回かある。
絶望している人の近くにいたこともある。
それでつくづく実感するのは、絶望は本人以外どうすることもできない、ということだ。
ちょっと待て!
それは、まわりのひとが助けてくれないからじゃないか?
負のオーラを感じてすばやく安全地帯まで身をひくからじゃないか?
それを感じてまた絶望するのだよ。
そう、誰も親身になってくれないから。
冷たい世の中だ。
と、思うのもわかる。
オレもそう思いがちだし。
誰も助けてくれない。
まわりは冷たい人ばかりだし、オレもこんな自分が嫌いだ。
誰も気にかけてくれない役に立たないオレなんて、生きてる価値あるのだろうかと。
その一方で、プライドもある。
もうどうしようもないやつ、とあきらめてるような顔。
いかにも同情してるみたいな、可哀想なやつ、みたいな目で見てくる奴。
いかにもな説教をしてくる奴。
そんな奴らの顔はみたくない!
と強く思ったりする。
うーむ。
自分が絶望している時はそんな分析してる余裕はないけど、絶望している人をなんとかしたい、といろいろ努力した時に、なんともならなかったときに思った。
その人の絶望は、本人がどうにかしたいと希望しない限りどうにもならない、と。
まわりがその人をどう見ているか、ということよりずっとずっと重要なのが、
その人が自分をどうみているか、というところだ。
その人が希望していた人生があって、それとずれたと気づいたとき、もう投げやりになってしまって、すっかり諦めてしまっているように見える。
例えば、イケてる人生。
みんなに注目されて、才能があって、自然とみんなに愛されて、がつがつしなくてもお金も自然とじゃんじゃん入ってきて、なんかうまくいっちゃう〜。
というような。
それとは違った自分に絶望している。
それで、まわりにいるひとがどんなにその人のいいところを力説したとしても、本人にとってはただのなぐさめとか同情にしか感じられず、心に響かない。
オレは絶望している人に、日頃思っているその人のいいところをものすごく力説したのだが、途中で無駄な努力してる、と思ってしまった。
全然伝わってないことが伝わってきたから。
ほんとうに言葉が空回りしている感じになってしまった。
彼の絶望感が、オレの言葉の真実を、虚しさビームで撃墜した感じ。
多分本当に問題なのは、現状ではなく、本人の絶望感そのものなのだ。
状況を変えよう、変えれる、と信じられなくなっていることが問題なのだと思う。
それと、昔の理想にこだわりすぎているところ。
そうでないと価値がない、と思ってしまっているところ。
ああ、うまく言えない!
とにかく、自分が絶望している時にはわからないことが、絶望している人のまわりにいると、いろいろわかることがある。
絶望している人は自分の絶望でいっぱいだが、絶望している人を心配している周りの人もやはり、その人の絶望感にやられそうになる。
自分の人生をかけてその人を助けたい、と思ったとしてもやはり、本人がその気にならない限りそれはおせっかいであり、うざい奴であり、ほっといてくれ!にしかならない。
そして、そもそも自分の人生を犠牲にしてまで助けてくれる人はそうそういないと思う。
でも、少し手を貸してくれるひとだったら、思ったより多いと思う。
だからこそ肝心なのは、変えよう、変えられるという本人の意志だ。
希望を捨てない、という意志だ。
人はプラスのエネルギーを持った人が好きだ。
どんな状況でも、生きる希望をもって朗らかに生きている人が好きだ。
自分の希望もチャージされるような気がするから。
絶望までいかなくても、やはりみんなそれぞれつらいことがあるから。
いつまでも絶望している人のそばにいる人はだんだんつらくなり、自然と離れていってしまうのが普通だろう。
それでますます絶望するのは間違いだと思う。
絶望している人は、いったん自分の絶望は置いといて、絶望している人のために何かできることがないか、やってみるといいと思う。
最近思うのは、そんなに自分に絶望されてる自分って可哀想すぎる、てことだ。
絶望したって勝手に思っているのは脳みそのほんの一部分だけで、そうとは知らず、体の中のほとんどの自分は、今日も自分を生かすためにせいいっぱい働いている。
けなげに働く37兆の味方!を無視してそんなふうに思うって傲慢すぎない?独裁者か!(⌒▽⌒)
幸せな老後を送ってほしい。
老人にはみんな幸せな老後を送ってほしい、と心から思う。
それはいい人ぶってるからではなく、未来に希望が持てる気がするからだ。
介護者の苦労とか、年金のせいで若者が割食ってるとか、そういうことばかり強調されている気がする。一方で弱者を守れとかしたり顔で言われても説得力がない。
政治家やコメンテーターの言うことを聞いていると、
「老人(とかお金を稼げない、役に立たないひと)は早く死んでくれ、
お金の無駄遣いになるからメーワクだ。」
と言っているようにしか聞こえない。
老人を排除したがると言うことは、社会的弱者を排除したがっているってことで、
その気配に、余裕のなさに、導き方に、恐ろしさを感じる。
社会的弱者でも、いかにも物語になりそうな人だけは救って、ごまかす( ̄◇ ̄;)。
なにかすべてが嘘くさく薄っぺらい。
「老人はずるい、得をしている(役立たずのくせに)。
それで、汗水たらして働いている俺らは損をしているのだ!」
と言う話はたえず聞かされている気がする。
確かにそういうところはあるだろうけど(^▽^;)、
なんかそういう話の持っていき方が嫌なのだ!
スケープゴード的な?
そんな社会の風潮を受けて、老人たちも危機感を感じている。
もう自分のことでいっぱいいっぱいだ。
どう老後を守るか、いかにして自分(だけ)が楽しんで生きていけるか。
助け合いの精神はどうした、助け合いの精神は!
と思う。
こんなにまでお金がすべてみたいな世界になるとは思わなかった。
けれど貧乏でも弱者でも楽しく生きてゆくことはできると思う。
手助けできそうなことは手助けする。
やれることは自分でやる。
人のせいにしない。
なんでも無駄と思わない。
おもしろいことをさがそう。
とかさ、心構えだけでも、みんながこんなふうだったら、かなり生きやすい世の中になると思うんだけど。
オレたちは皆、話を聞いてほしいのだ(⌒▽⌒)。
オレたちは皆、
「自分の話をしたい!自分の話を関心をもって聞いてほしい!」
と思っているんだな、と最近つくづく思う。
主張の激しい人はもとより、控えめの人も話したくないわけではなく、誰も聞く耳持たないから話さないだけ、ということは非常に多い(⌒▽⌒)。
自分語りを聞いていて疲れることがあるのは、その人の関心が自分にだけ向かっていて、
「正義は我にあり」「私すごい」「悪いのは周り」みたいなのに飽きるからだと思う。
そういう話を聞くと、実は相手はいらないんだろうなあとも思う。鏡に向かってしゃべっているようなもので、相手はオレじゃなくてもいい。
語れる相手であれば誰でも。
こちらの感想とか意見はいらない。かえってじゃま。
全面的に賛成しないと不機嫌になって、急に全て拒否したりする。
鏡に意見されるのいやだもんね(>▽<)。
でもそっちの話聞いたんだからさ、オレも話を聞いてほしい(⌒▽⌒)。ギブアンドテイク。
がんばって隙を見て、こちらの話もするが、そういう人はこちらに関心を示さない。
こっちはこっちで真剣に考えている話があるのに、急につまらなそうになる。
つまらないってことをアピールしてくる。
露骨に無関心を示されて、話す気がなくなる。
うーむ。オレは、話す価値もない人なのか‥。
「お前はオレの話だけ聞いてればいいんじゃい」と言われている気がする。
このようなことはよくある(⌒▽⌒)。
心から話を聞いてくれる人というのは貴重だ。
「拒否から入っていない人」に話を聞いてもらえるのはうれしい(⌒▽⌒)。
でも全面的に賛成されてもうさんくさい。
話を聞いてもらいたい人のために、拝聴とかカウンセラーとかの仕事があるが、そういう人とはあまり話したいとは思わない。
だってあなたがどんな人か知らないし(⌒▽⌒)!
へたに私は専門的な勉強をしている、と自信をもっていられる方が、合わなかった場合やっかいな気がする。
それにオレは一方的に話したいのではない。
オレの方がさらにやっかいか。
啓発本やサイトにピンとこなくなったわけ。
常に人生に迷いがちで悩みがちなオレは、昔は啓発本を読みまくり、ここから抜け出せるヒントがないか探したものじゃった。
今のオレを見てるんじゃないかと思うくらいよく分析していて、積極的なアドバイスものっていて、本を読み終わった後は、もう幸せになる方法はわかった!と希望に満ちていた。
何かを書き出してみる(好きなこと、現状の問題点、自分に関するあれこれなど)というのは形は多少違ってもたいていの本には書いてあり、オレは張り切ってノートを用意して、本に書いてある通り、自己分析をし、あれこれと書き出してみたものだった。
そして今‥
同じようなことを書いた、最初の数ページが埋まったノートが引き出しに山ほど(^▽^;)。
そして現状、何も変わっていない。
あの、本を読んでいた時の輝ける希望はどこに行ってしまったのだ。
やる気を出したくて、まだときどきその手のサイトを読んでみるが、もう全然心に響かない。
どこかで読んだようなことばかり。
そう、オレは啓発本を読みすぎてしまったのかも(⌒▽⌒)。
啓発本はたくさん読むものじゃない。
啓発本やサイトが個々人の人生を解決してくれるもんでもない。
その本の作者は作者だし、自分は自分だからだ。
才能もパワーも環境も性格も、持っているものは全て違う。
同じようにできないのは当たり前。
オレにとって啓発本は
「オレの人生を変えてくれる」ではなく、
「途方に暮れていたオレに一瞬、希望を与えてくれる」
という、つかの間の飴玉みたいなものだったと思う。
甘いものが欲しくて、次々に手を出す。
食べている間は、幸せ。
自分の人生を変えたいはずが、本に没頭することで、その間中、一種の現実逃避をしていた。
本を読まなくてもわかっている。
一番大切なのは、自分で決断する勇気だ。
決断した人生をよりよくしていこうとする決意だ。
どんなことがあっても、何を言われても、くじけず明るく生きていく姿勢だ。
書いてみてわかったが、オレは真逆な性格だな。
決められず、いつまでも悩む。
自分で決めた道がいつも間違っていた気がしてくよくよする。
人に批判的なことを言われるとすぐ挫ける。
むむむ。
これって変われるのだろうか?
しかしそうやってクヨクヨしているうちに、いよいよチャレンジするのには厳しい年齢になってきてしまった。
もうこのままでいるしかないのか?
でもこのままでいられるのか?
思えば5080問題のひとたちも、同じような焦燥感を常にどこかにもって生きているんだろうと思う。
身動きとれない、でももはや、へたに身動かない方が身のためかもしれない、というどっちつかずの気持ち。