『言葉』という道具について。(2014.4.22)

小保方さんの事件からいろいろと考えてしまうオレであった(^^)。

オレがこの一連の騒ぎをみて思ったことのひとつが

「『言葉』という道具の使い方は職業によって本当に全く違う」

だった。



例えば科学者は言葉をただ事実を語る道具として使う。
「捏造と結論つけざるを得ない」
と言ったら文字通り、いろいろな検証をした結果を語っているに過ぎない。
逆に明らかに疑わしくても、はっきりした証拠がでなければ
「捏造とは断定できない」
となる。
そこに自分の感情的なものや感覚的なものをはさまない。
以上終わり!
と言う感じだ。



それがマスコミの人には物足りない。
なぜなら、その世界では、
言葉は事実を飾るものとして使うからだ。あるいは、
言葉は説得するための道具、自己主張するための道具として使う。



この両者は全く言葉の使い方が違う。
科学者が
「可能性はありますが、まだ何とも言えません。わかりません。」
と言えば文字通り、
「仮説としてはあるが検証されていない限りどちらともいえない」
と言っているのだが、それを聞いたマスコミの人は
「何とも言えないなんて何か隠している!」
「わからないなんて無責任な!」
と気色ばむ。



たとえば「切り貼りをしてはいけなかったとは知らなかった」
という小保方さんの話についてコメントを求められた科学者は
ただ控えめに
「それは研究者としては考え難いですね」と言っただけだったが、
コレをマスコミの人風に言うと、


「信じられません!
いいですか、これは例えば中堅アナウンサーがある日
『えーっ、ニュースって原稿読んでるんですか?
私、フリートークだと思ってたー。』と言ってるようなもんですよ!
それっておかしいでしょ!
ええ、ええ、捏造以外考えられませんよ!」


くらいなテンションになってるはず(^^)。